藍色のたより

 

 

 

 スクリュー島の海岸にはたくさんの物が流れ着きます。それは浮き輪であったり、ラベルの剥げてしまった空き瓶であったり、どこか遠くの学校で使われていたバレーボールであったりしました。これらはどれもが波に揉まれてくたびれた様子で、すっかり捨てられたごみのように見えます。けれども、実はすべて誰かの思い出が詰まっている大切な物たちなのです。
 数日前、同じようにこの島へ辿り着いた魔女はとある探し物をしていました。これだけたくさんの物が流れ着く海岸なのですから、どこかにきっと自分の大切な物もあるはずだと考えたのです。けれども、あまりの物の多さに骨が折れそうでした。
「お手伝いさんがほしいですね」
 魔女はあたりを見回します。そうして、適当なところに向かってふうと息を吹きかけました。するとどうでしょう、破れた漁網がむくりと膨らみ、その下から人の子が顔を出したのです。くすんで錆びれて穴のあいた物たちとは不釣り合いな、なんとも透きとおった色の美しい男の子でした。
「貴方、私と一緒に探し物をしてくれませんか。代わりに、私が貴方の想いを届けましょう」
 幼い子どもがこくりと頷きます。それから、大事そうに抱えていた物を魔女に渡しました。
「そうですか、これが貴方の想いなのですね」
 必ず探して届けましょう、と彼女はやさしく子の頭を撫でたのでした。

 

 

 

(ああ、これはまず食事の仕方から教えないとな……)
 と、香川はこの光景に頭を抱えていました。あの島で初めてこの子どもを見たときは、品のある賢そうな子だと思ったのです。ですから、一体誰がこの目の前で繰り広げられている姿を想像できたでしょうか。
 さて、ほんの前に話を戻しましょう。
 島から自室に帰ってきた香川は、まず夕ご飯を用意しました。この子がいくら人見知りとはいえ、ここまで一言も話すことがなく、ずうっと大人しいままなのを少し不気味に感じていました。そこで彼は、もしかしたらこの子はお腹をすかして元気がないのではと思ったのです。
「ちょっと待ってて」
 ダイニングの少し高い椅子に子どもを座らせて、香川はキッチンへ姿を消します。しばらくして出てきたのは、黄金色の透きとおったお出汁に真白い麺がつるりと輝くこの地域の名物料理でした。
「はい、召し上がれ」
 表情に乏しい子どもの瞳に幾分か光が宿り、湯気の立ち上る器を物珍しそうにのぞき込んでいます。
「讃岐うどん、ていうんだ。食べたことない?」
 小さな彼は、器に視線を送ったままで首を縦に振りました。
「そっか。それならこのままだと食べづらいかもね」
 と香川は言うと、奥から小さなお椀を持ってきてうどんを取り分けてやりました。讃岐うどんは麺が太く長いので、子どもが食べやすい長さに切ってあげる必要があります。それから、口を火傷しないように冷ますことも忘れません。
「これで大丈夫かな。はい、どうぞ」
 大きな器を遠ざけて手前にお椀を置いてやると、その子はよほどお腹がすいていたのか、なんと箸も持たずに器の中へいきなり手を突っ込んだのです。小さな彼はお出汁が飛び散ることもお構いなしでうどんを掴んでは一生懸命に口へ運び、手で掴めなくなるとお椀に口を持っていって啜りました。この姿にはさすがの香川も驚き、子どものことをまるで犬のようだと思ったぐらいでした。上品そうな衣服の袖も、テーブルも、床も、辺り一面がびしゃびしゃになりました。
 そうして、話が冒頭へかえります。
(ごちそうさまの後は風呂だな)
 まさか自分が子育ての苦労を経験する日が来るなんて思ってもみなかった香川は、豪快に食べる子どもにおかわりを注ぎつつ、世の中の親は皆すごいなあと改めて感心するのでした。
 戦いのような食事をやっと終え、お出汁だらけの彼をお風呂に入れ、ひと通り部屋の掃除も済ませたあとで、ようやく香川は気になっていたことを子どもに尋ねます。
「お前、名前は?」
 ソファに座る小さな身体と目線を合わせるように香川は床へ座ります。出会ったときと同じように、そうっと手を握ってやりました。
「名前、なんていうの?」
 青い目があっちへきょろり、こっちへきょろり。何かを探すように彷徨って、少しばかり考えたかと思うと、やや間をおいてから弱々しく首を横に振ります。
「ううん、そっか。じゃあ、俺とお話はできる?」
 小さな彼は、香川から放した手を喉元へあてて「あー」と声を出そうとしますが、出てくるのは音にならない吐息ばかりでした。またふるふると頭を振って、〝いいえ〟の返事をします。
「そう、わかった」
 大丈夫だよ、と香川は不安そうな頭をくしゃりと撫でてやりました。なかなか表情に乏しい彼ですが、香川にはこの子がなんとなく泣いてしまいそうに見えたのです。
「とりあえずはそうだなあ。――藍」
「……?」
「名前だよ。いつまでも〝お前〟のままだと不便だろ」
 と、香川はそのさらさらの髪を梳かしながら言いました。
「安直かもしれないけど、お前の髪、綺麗な色をしてるからさ。だから藍色の、藍」
 嫌かな、と小首をかしげてみれば、この子――藍が今度は大きく首を横に振りました。きっと嬉しかったのでしょう、心なしか頬が鴇色に染まっているようにも見えます。
(あいつに似てるなあ。……うん?)
 あいつ、て、誰?
 香川には確かに今、はっきりと思い浮かんだ姿がありました。けれどもそれも一瞬で、すぐにおぼろげな記憶に変わってしまいます。まるで、夕焼け空に溶ける陽炎のようでした。
 妙な喪失感と焦燥感が胸に残ります。嫌な予感がするのです。だけど、その理由はわかりませんでした。
 藍が、難しい顔のまま動かない香川を心配して袖を引っ張ります。
「……ああ、ごめんね。なんでもないよ」
 そうお得意の笑顔で答えてやれば、藍の不安そうな雰囲気が少し和らぎました。
「今日はもう寝ようか」
 安心したのか、それとも慣れない場所に来て疲れていたのか、名前と同じ色した目はいまにも閉じてしまいそうです。香川は繋いでいた片方の手をそのまま引いて、藍を寝室に連れて行きました。先ほど感じた違和感はとりあえず置いておくことにしたのです。
「少し狭いかもしれないけれど、俺のベッドで一緒に寝ようね」
 落ちないように藍を奥の壁側にして布団にもぐります。香川はその小さな身体を潰してしまわないようになるべく端へ寄りますが、それに気がついた藍が香川の服を自分の方へと引きます。いまにも落ちそうなまぶたをしながら、それは許さない、と訴えてくるのです。
「はいはい、わかったよ」
 観念した香川はわずかにベッドの内側へ身体を寄せます。藍はそれに満足したのか、しばらくすると香川の服を握りしめたまま寝息を立てはじめました。
「はは、これが天使の寝顔、てやつなのかな」
 と、安らかに眠る顔にかかった絹のような髪を払いながら呟きます。
 窓の外には星が瞬いていました。香川はそうっと腕をのばして、開けたままだったカーテンを閉めます。そうして布団を被りなおして、彼もまた、夢の世界に旅立つのでした。

 

 

 

  

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