蒼色のたより

  

  

  

 魔女は夢をみました。とても懐かしい夢でした。梅雨の明けたばかりのころ、潮が引いた夕間暮れ、空と海がひっくり返った世界に魔女が長く探していたその人がいました。
 けれども、潮鳴りが止みません。相手の声は聞こえないまま、こちらの声も届かないまま、ざわめく風が波を呼んで、彼の姿を消してゆきます。
(貴方はまだ、そちらにいるのですね)
 過去も未来も、ヒトもモノも、巡りめぐって流れ着いたこの場所は、手放したものしか辿り着けない漂流の島。触れない距離と積もる月日が魔女と彼を離してゆくのでした。
 そうして、黄昏時にひとり残された魔女は思います。
(貴方がいないのなら、これは悪夢だ)
 恋しくなって、苦しくなって、どうしようもない想いがうずまく心に浮かぶのでした。

  

  

  

 ひこうき雲の線が残る青空の下、あちこちで咲き誇る小さな真白い花の甘く美しい香りが街中を満たしています。
 そんななか、香川は一日局長を務めることになった少し変わった郵便局の制服を試着していました。
「ちょっと首元きつくない?」
「こんなもんですよ」
 部下の青年に上まできっちりとボタンを閉められてしまい、いつも襟元を緩めている香川はその息苦しさについつい文句を零します。
「たった一日ですから、当日は我慢してくださいね」
「手厳しいなあ。俺、上司だよ?」
「パワハラ反対」
「冗談だって」
 一通りの試着が終わると軽口を叩きながら元着ていたスーツに袖を通し、詰まりかけていたものを吐き出すようにふうと息をつきます。
「リラックスしているところ申し訳ありませんが、今日は午後から中四国地方の定例会議ですよ」
「ああ、そうだった。場所どこだっけ」
「今回は鳥取県ですね」
 鳥取県というのは、海を渡ってすぐの岡山の地域よりも、さらに北へと進んだところにある地域です。鳥取の神は気が小さくていつも自分に自信がありません。岡山はそんな彼を母のように気にかけていました(それでも一応、彼はこのあたりの地域一帯をまとめるリーダーなのですが)。
「付いて行きましょうか?」
「ううん、遠いし遅くなるから大丈夫。それより藍のことを見ててよ」
 藍は人の子ではありませんから保育園に通えません。だけどもひとりで部屋に残すわけにもいきませんので、香川はずっと自室で仕事をしながら面倒をみていました。
「わかりました、お気をつけて」
「ありがとう、行ってくるよ」
 藍は人見知りをする性格でした。けれども、部下が度々部屋を訪れては遊んでくれましたので、今ではずいぶんと慣れた間柄になっていました。香川もこの部下にならば安心して藍を預けられると思ったのですが、どうしたことでしょう、小さな彼はさめざめと涙を流して香川から離れようとしません。
「藍、俺は今から大事な会議に行かなくちゃならないからお前は連れていけないんだ。いつものお兄さんと一緒に部屋で待ってて」
 ごめんね、と小さな頭を撫でてやると少し落ち着いたのか、まだ不安の残る顔をしていましたが、握りしめていた香川の上着から手を離しました。
「いいこ。夜には帰るから」
 ちゅ、とぐずる幼子の額に口づけを落として香川は鳥取県へ向かいます。
「……いってらっしゃい」
 部下は気づいてしまいました。そのときの香川の目が、子を慈しむ親というよりは恋人に向けたそれに近いものであったことに。そしてそれは、香川自身は気づいていないことでした。
 さておき、話を戻しましょう。
 高速道路を飛ばして(速度に関してはお察しの通りの)数時間、指定された会議室にはすでに神々は揃っていて、香川が最後の到着でした。季節柄か、部屋の片隅には白くて香りのよいあの花が飾られています。
「それでは八人揃いましたので、中四国地方定例会議を始めたいと思います」
(――え?)
 香川は鳥取の言葉に慌てて部屋を見渡します。ここにはお目当ての姿がありません。
「待って、鳥取くん。まだあいつが来てないよ」
「〝あいつ〟?」
 ざわざわとした室内で皆が一斉に香川を見ます。そうして「これで全員では」と口々に零しました。
「なに言ってるの、あいつだよ。ほら、蒼くて髪の長い……」
「誰ですか?」
 鳥取はきょとん、と小首をかしげます。
(……どうして。どうしてあいつの名前が出てこない)
 一体全体おかしなことです。親友である香川はおろか、隣近所であるはずの神々が誰ひとりとして岡山の名前を覚えていないのです。
 香川の頬を脂汗が伝います。むせ返る花の香りでうまく呼吸ができません。胸で浅く息を繰り返すだけでは頭に靄がかかる一方です。
(この前まで何ともなかったのに、なんで思い出せない……!)
「香川、顔色悪いよ。大丈夫?」
 みかんで有名な隣神(愛媛といいます)が香川の背をさすって座らせます。
 その時でした。
「すみません、遅れました……っ」
 現れたのは蒼い姿で髪の長い神物――香川の探していた神物でした。
 だけども、やっぱり皆の様子はおかしいままです。一番に対応に向かった鳥取はまるで岡山のことなど知らない態度で、その鳥取を庇うように続いた広島(こちらはレモンで有名な岡山の隣神です)にいたっては彼を不審者として扱いました。
(どうして分からない……っ、あいつなのに、〝あいつ〟なのに!!)
 話の通じないふたりに困った岡山が香川に縋るような視線を寄こします。
「――……っ」
 ですが、名前を呼ぼうと無理やり唇を動かしたところで漏れ出るのは音のない振動ばかり。そんな香川の様子に、岡山が肩を落として力なく部屋を去ってしまいました。
 そう、この部屋にはついに一度として彼の名前を口にできる者はいなかったのです。
 少し難しい話をしましょう。
 ヒトという生き物は何かを見聞きしたり感じたりしたときに、それを概念として認識するそうです。けれどその認識はひどく曖昧なもので、例え特徴を覚えていたとしても、長い間覚えておくには名前を付けてやらねばなりません。蒼い服装の髪の長いヒトなんて、世の中にはたくさんいるでしょうから。
 反対に、私の特徴を覚えているヒトは少ないでしょう。けれども私には名前があります。名前があるからここにいられるのです。
 ならば岡山はどうなるのでしょう。香川を除けば存在そのものが忘れられているといっても過言ではありません。姿も名前も忘れられた岡山は、このまま誰の思い出にも残ることなく消えてしまうのでしょうか。
 ……それはとても、寂しいことだと思いませんか。
「あんた何やってんの!」
 さて何ごとでしょう、この地方でたったひとりの女神がぎょっとした顔で香川に駆け寄っています。見れば彼の左手は血まみれではありませんか。握られた拳の下には割れたグラスの破片が散らばり、香川の血とグラスに入っていたお茶が混ざって床を汚していました。
「手なんてどうでもいいよ」
 俯いた香川は震えた声で答えます。
(切れた手よりも、胸の方がもっと痛い)
 いつの間にか、窓の外はすっかり茜色でした。
「あれ、まだ日が沈むには早すぎるのに……」
 愛媛がぽつりと呟きます。けれどその呟きは騒ぎでかき消されてしまいました。
 だから誰も、これから長いながい黄昏時がはじまるなんて知ることができませんでした。

  

  

  
 私の空も夕焼け空です。ずうっと夕焼け空なのです。
 これは、私の物語。
 未来を前にしてすくんでしまった、私たちの物語。

 

 

 

 

 

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