最近、何かがおかしい。違和感が拭えない。
「す、すみません! ……え、と」
「岡山です」
「あ、そう! 岡山様!」
 身体への衝撃と、ばささと紙の落ちる音。どうやら私が考え事をしていたせいで、資料を抱えた女性職員とすれ違いざまにぶつかってしまったようだ。
「すみません、こちらも不注意でした。お怪我はありませんか」
「だ、大丈夫です!」
 そうして彼女が落とした書類を抱え直して足早に去っていくのを、なおもぼんやりとしたままの頭で見送る。
「ああいたいた! ええ、と、ゆる神の……」
「岡山です」
「ああ! そうそうそう!」
 今度は別方向から老年の男性職員に呼び止められる。彼は私の課の課長だった。

「――へえ。そんなことがねえ」
 夕方のカフェテラスに人の気配はなく、店には私とその向かいに座る男だけ。ふたりきりの、黄昏の世界。
 この白昼夢のような邂逅も一体何度目だろうか。十回、二十回、もう両手では数えきれなかった。
「この頃は特に名前を忘れられることが増えたように思いまして」
「ふぅん。俺の時代はそもそもまず姿が見えないのが普通だったからなあ」
 わからないや、と彼は笑う。
 はじめこそこの得体の知れない存在――讃岐に対して言い知れぬ恐怖を抱いていたが、こうも頻繁に会っていては慣れるというもの。今ではちょっとした相談もできるようになっていた。
「私の気にし過ぎなのでしょうか」
「寂しい?」
「いえ、そういう訳では」
「大丈夫だよ」
 す、とカップを包んでいた私の手を讃岐がすくう。立ち上がって、身を乗り出して、くるりと返した手のひらにそっと口づけを落とす。
「ふは、初心だねえ、岡山」
(……前言撤回)
 頬が熱い、くすぐったい。何度会っても彼のこういった行動だけはまったく慣れやしなかった。
「大丈夫、大丈夫」
 私のすくわれたままの左手が讃岐の頬にあてがわれる。そうして、まるで猫のように小さく頬ずりをひとつ。
「俺がいるからね」
 視線が刺さる。ぞくりと背が粟立つ。親友と同じで目尻の垂れた、けれど親友とは違う色の目が私を、私のその奥を射抜く。
「……っ、貴方が、貴方が本当に見ているのは」
 くつくつ、にやり。讃岐の口が厭らしく孤を描く。
「さて、そろそろお開きかな」
 それ以上は聞く気がないと言わんばかりに一輪の花が私の髪へと挿される。別れ際の定番となった茉莉花。その芳しい香りで意識が遠のいてゆく。
「初心でさびしんぼうな岡山、ひとりぼっちになったら渡っておいで」
(――どうして)
 どうして、貴方がそんなふうに笑うのですか。
「黄昏時で待ってる」
 さびしんぼうは貴方のくせに。そうやって、いつも頭を撫でるやさしい感触だけを残して、私をひとり現実に置いて消えるのだから。

 

 

 

 

 

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