夕焼け小焼けで日が暮れて、カラスが鳴いたら還りましょう。
 小暗がりをゆらゆらと手を引かれながら歩く。懐かしさを感じる知らない土地。建ち並ぶ屋敷には明かりが灯り、魚の焼ける香りや煮物の炊ける香りが漂う。
 だけれど、人の気配はしなかった。
「怖い?」
「大丈夫、貴方がいますから」
「そっか」
 眉尻を下げて、頬を染めて、幸せだと言わんばかりにはにかんでみせる。

 

『百年先まで祝えなきゃ割に合わないよ』

 

(――っ、いまのは、誰)
 急に針を刺したかのような痛みがこめかみを走る。それに思わず立ち止まる私を讃岐が覗き込んだ。
「どうかした、備前?」
「いえ、……〝びぜん〟?」
「うん? そうだよ、お前の名前だろ」
「そう、でしたっけ」
 呼ばれた名前にどこか違和感が残るものの、頭の中は霧がかかったように白くぼんやりとしていた。何を思い出そうにも酷く労力を使って仕方がない。
「ああ、そうだ。そんな首の詰まった服じゃあ苦しいよね」
 讃岐がひらめいたように言う。そうして誘われ立ち寄った呉服屋にも、やはり人はいなかった。
「これにしようよ」
 勝手に店内を物色して持ってきたものは、彼の瞳と同じ、黄昏色の着物。
「俺が着せてあげる」
「自分で着られます」
 この羞恥心を煽る申し出に私がいくら首を振って断っても、讃岐は有無を言わさぬ笑顔でこちらへにじり寄ってくる。そうしてしばしの攻防も虚しく、決着は私の背中が壁について終わった。
「大丈夫。ここには俺たちふたりきり。他には誰も見てやしないさ」
「……そこまで言うなら、お好きにどうぞ」
 まったく譲らない相手に観念し、ため息をひとつ零して私は身を差し出す。するりするりと服を剥がされ、肌の露わになった様に讃岐がうっそりと笑う。それから、その少し温度の低い手がそうっと私の胸に触れた。とくんとくんと、波打つ心臓。
「お前は生きてるんだね」
 と、讃岐はまるでそれが哀しいことのように言う。
「貴方も生きているでしょう?」
 彼は私の言葉に寂しそうに笑うだけで何も答えない。けれどそんな表情もほんの一瞬、次の間には慣れた手つきで私に着物を着せ、和装に合うようにと髪も結ってくれた。最後に刺した何かからは、芳しい花の香り。
(……あれ)
 ふと視界の端に揺れた髪が、私に再び違和感を覚えさせる。
「ねえ、讃岐」
「なに?」
「私の髪はこんな色でしたか?」
「そうだよ。赤土の色。備前のところの焼き物の色」
 摘んで見上げた髪色は、少しくすんだ、黄色味を帯びた赤色。ふと脱がされ転がされたスーツを見やる。まさかこんな髪色で私はあの明るい藍染の洋服を着ていたのか。もしそれが本当ならば、自分は随分と奇抜な格好をしていたことになる。
 巡らせども巡らせども、思考はふわふわ纏まらない。花の香りで目が回りそう。
(何も……わからない……)
 私がよほど渋い顔をしていたのだろう、見かねた讃岐がゆるりと頬を撫ぜた。
「綺麗だよ、備前の色は」
 あの洋服はちょっとあれだけど、と私の服に苦笑いを零す。
「私、あの洋服の他に着るものがないのですが」
「大丈夫、これからはこの着物を着ればいい。着替えだってたくさんある」
「ここには住むところも、働くところもありませんよ」
「働く必要はないさ。俺の家で一緒に暮らそう」
 ずっと後悔していたんだ、と讃岐が私に抱きついて首元へ顔を埋める。
「あのときの返事をさせて欲しい」
「あのとき?」
「親友でいてくれますか、て」
 つきん、とこめかみが痛む。何かが違うと訴えかける。
「それは本当に私が貴方に言った――」
 そのときだった。
「おかやまぁーーー!」
「――っ!」
 脳天を鈍器で思いきり殴られたような頭痛。先ほどとは比べ物にならないほどの痛みに思わず倒れ込む。
「岡山返事しろぉーー!!」
「い……っ!」
「備前、……備前!」
 讃岐が身体を支えてくれるも、痛みに耐えることに精一杯で起き上がれない。全身から脂汗が吹き出る。遠くで誰かが名前を呼ぶたびに頭が割れそうになる。
 ……名前? 誰の……?
「わ、たし、は……」
「大丈夫」
 讃岐の手のひらが瞼を覆う。少し低い体温が、ひんやりとして気持ちいい。
「備前には指一本も触れさせないよ」
 少し眠ってて、と覆った手の下、私の鼻先へ口づけを落とす。それを合図に意識が遠のく。
「さぬ……き……」
「大丈夫、俺が守るよ。俺の親友は誰にも渡さないから」
(この、お馬鹿さん)
 貴方の守りたい相手は、岡山ーわたしーではないのでしょう?

 

 

 

 

 

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