もうじき終業時刻か、と窓から差し込む橙色の光に目を細めたことまでは憶えている。私はつい先ほどまで、確かに県庁にあてがわれたデスクでキーボードを打っていたはずなのだ。
「やあ、また逢えたね」
 突然真っ黒になったパソコンのディスプレイに消えた職員たち、入れ代わりで現れるひとつの存在。音の消えた世界では唾を呑む音さえ耳障りだった。
「……さ、ぬき」
 右隣の部下の席には親友と瓜二つの顔をした男が笑みを深くして座っていた。
「憶えていてくれたんだね」
 うれしいなあ、と立ち上がった讃岐が距離を詰めてくる。先日の邂逅を思い出して離れようとしたが、それよりも先に椅子の前を塞がれてしまった。そうして私に覆い被さるようにデスクへ片手をつく。退路は絶たれた。
「――っ」
「そんなに怯えないでよ」
 讃岐がもう一方の手で髪を梳くように頭を撫でる。その壊れものにでも触れるかのような手つきに酷く泣きたくなった。
「よしよし、岡山は泣き虫さんだなあ」
「泣いていません」
「はいはい、いいこいいこ」
 そうして何十分と(いや、もしかするとほんの数分かもしれない)されるがままになっていただろう、誰かに見られている訳ではないのに羞恥心が限界だった。部屋の時計は五時十五分を指したままで動いていないが、もう充分ではないか。
「あの、讃岐。そろそろ……」
「うん? ――ああ、ふふふ」
 撫でる手を止めた讃岐がゆっくり身を屈める。岡山さあ、と私の耳元へ唇を寄せて、脳へ直接言葉を流し込む。ぞわりと疼く腹の違和感に慣れることはなく、今すぐ逃げ出したい衝動に駆られた。
「顔、真っ赤だよ」
「――……っ!」
 耳にかかる吐息、脳を溶かすような声色。背中を這い上がる何かに耐えきれず悲鳴を上げそうになるのを必死に堪える。生理反応で涙が溜まり、今なら泣いているとからかわれても仕方がなかった。
 そんな私が余程可笑しいのか、讃岐はくつくつ嗤っている。
「貴方ねえ……!」
 讃岐の嗤いは止まらない。かわいいねえ、と再び頭を撫でて宥めると、私の落ち着いた頃合いにこめかみへ何かを挿してきた。
「この香り、先日と同じ花ですか」
「そう、茉莉花。鎮静作用があるんだ。仕事でお疲れの岡山に」
 言うやいなや私の視界は手のひらで奪われ、やさしい感触が額に落とされる。
「頑張り屋さんにはごほうびをあげないとね」
 それじゃあまたね、と離れていく気配。次に目を開けた時に映ったのは片付けを済まして席を立つ隣の部下の姿だった。

 

 

 

 

 

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