夢を見ていた。
 黄昏の中、別れを惜しむふたりの姿を。
 親友のささやかな願いに、曖昧な返事を返した彼の姿を。
(いつの時代も、変わらないものですね)
「――ま、……やま!」
 ああ、誰かが私を呼んでいる。
(帰らなければ)
 私の在るべき場所に。

「岡山、返事しろぉーーーーー!!」
 はっ、と目が醒める。私は倒れた呉服屋にひとり残されていた。霧がかった思考も割れそうな頭痛もすっかり消えている。
「岡山ぁーー!」
 私を呼ぶ声は絶えず聞こえる。早く行かなければ彼が喉を傷めてしまうかもしれない。
 靴を履くのも煩わしくて裸足で駆け出した。着物が乱れてもお構いなしに声を頼りに小路を抜ける。
 横断歩道の向こう側、讃岐とよく似た男が叫んでいた。肩で息をしながら、ブロンズの髪はぼさぼさで、ラフと言うには酷すぎるほどシャツが出ていた。あの格好つけたがりの、ずいぶん格好の悪い姿だった。
「――香川!」
「岡山……っ!」
「違うだろ」
 そこへぴしゃりと冷たい声が響く。
「お前は備前だろ?」
「讃岐……」
 そうだよな、と瞳の奥を覗き込むように問うてくる。けれども、以前のような恐怖心はもう感じなかった。
「時代が変わっても、在り方が変わっても、姿形が変わっても、俺はずっとお前の親友だろ?」
 さあ、帰ろう? と彼が私の両の手を取る。
「……讃岐、私は備前ではありません。貴方の親友は、私ではありません」
 赤土色をした私を映す夕焼け色の瞳が、だんだんと水分を含みだす。
「じゃあ、じゃあなんで……っ、なんで返事も聞かずに逝ってしまったんだ……っ」
 俯いてしまった彼から、ぽろぽろと雨が落ちる。
「おかげでずっと、帰り道がわからないままだ」
 ああ、夕焼け空の翌日は晴れになるはずなのに。
「回りくどいことが嫌いなくせに、回りくどいことをするからですよ」
 不器用なひと、と震える肩を抱いて背中を擦ってやる。
「私も、同じことを聞いたことがあるんです」
「……え?」
 香川をちらりと見る。早く、と私を急かしている。ずうっと赤だった信号が青に変わっていた。
 それでも、まだ帰れない。このさびしんぼうを、二度も置いては行けない。
「あれは何て返したと思いますか?」
 ――〝先のことは分からないけど、何が変わろうとお前とやっていきたい気持ちは同じだよ〟。
「今はそれでいいだろ、ですって」
「……は、はは、なんだそれ」
 ぐしゃぐしゃの顔が私に向く。
「今の俺も、なぁんにも変わらないなあ。怖がりの、見栄っ張りの」
 どうしようもない、格好つけだ。
「っ、岡山!」
 香川が手を伸ばす。信号が点滅をはじめる。
「行きなよ」
 讃岐が私を突き飛ばした。いつまでも暮れることのなかった夕日が遠くに沈み出して、讃岐が影に飲まれてゆく。消えてしまうのか、黄昏時の、誰そ彼は。
「讃岐!」
 体勢を崩した私の爪先に影が迫る。
「私は、どんな回りくどい返事でも嬉しかった! だって、親友には変わりないから……! だから、だから備前も……っ」
「岡山早くっ!」
 影が迫る。伸ばした腕を香川が掴む。どちらともなく握り直して、そのままふたりで走る、走る。
 ――ありがとう、岡山。
 振り返った影の中、讃岐の手を引く光があった。彼はきっと、もう迷子のさびしんぼうではない。
「香川、追いつかれます! スピード上げて!」
「無茶言うなよ……っ!」
 ぜえぜえ、はあはあ。息も絶えだえに、走って、走って、走った。
 ――日も暮れて、空に僅かな朱みの残る岡山県庁前。ちょうど向かいの図書館が閉館して、残っていた利用者がぞろぞろと散っていく時間だった。
「戻って、来れました……?」
「っはあぁーー……!」
「……あの、香川」
「なに?」
 きっと、私も大丈夫。迷ったら、こうして手を引いてくれる親友がいるから。
「いつまで繋いでいるんですか」
「ああ、……うん、だめだめ」
 全力疾走で汗ばんだ手、恥ずかしいのでいい加減に離してほしい。
「俺がちゃんとした返事を言う前に消えようとした罰」
 部屋まで離さないから、と香川はあろうことか指を絡ませて握り込んで解きにくくした。
 県庁内はまだ少し職員が残っていて、すれ違うたびに皆に微笑まれる。途中で出くわした課長には「よ! お熱いねえ、岡山さん!」なんてからかわれてしまう始末だ。
「も、もういいでしょう! 逃げたりしませんって……!」
「だーめ」
 頬が熱い。心が保たない。これでは市中引き回しもいいところだ。
「ところでさ、土曜日空いてる?」
「……? ええ、その日は一日大丈夫ですが」
「じゃあさ、俺の勇姿を見に来てよ」
 勇姿とは、と首をかしげるも、それ以上は教えてくれなかった。そこからしばらく無言のまま廊下を歩く。頬の温度は、下がらない。
「着いたよ」
 私の部屋の前。繋いでいた手が開放される。ノブを回して、香川が先に入ると。
「はい」
 と、両腕を広げて待ち構える体勢をとった。そうして、ふにゃりと私の好きな笑顔を向ける。
「おかえり、岡山」
「――っ、ただいま、香川」
 私は羞恥心のお返しに思いきり親友の胸に飛び込んだ。香川ごと倒れ込んで、ふたりで笑う。
 いつの間にか解けた髪はすっかり元の色に戻っていて、挿していたはずの花の姿は香りも残さず消えていた。

 

 

 

 

 

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